池澤夏樹の文学全集で俳句を学ぶ!中編

f:id:lite-dynamo:20161024234655j:plain

 

前回記事に引き続いて、池澤夏樹編: 日本文学全集を下敷きに、読書内容の紹介をしていきたいと思います!

 

いよいよ三宗匠の実作品を読んでいきます!!

 

 

 

松尾芭蕉

同書冒頭を飾るのはもちろん芭蕉ここからすべてが始まったとすら思わせる圧倒的な俳人ですね。

 

こちらの全集、シリーズ通して当代一級の現役文学者による現代語訳を売りにしておりますが、おくのほそ道の新訳と評釈を担当しているのは松浦寿輝です。

 

どうしても仏文学者というイメージですが、ここで芭蕉を読む松浦氏の筆力はただただ圧巻です。

 

これは解説で種明かしされていますが、松浦によるこの評釈は、氏が学生時代に親しんだ安東次男へのオマージュであります。

  

ロラン・バルトジャン=ピエール・リシャールもたしかに凄いが、日本には安東次男がいるではないかと思っていたのである。

選訳者あとがき - p.506

 

学生時代の松浦氏をしてこうまで言わしめた安東次男、私は筑摩書店の日本詩人選より、藤原定家の巻を読んだのみですが、圧倒的に信頼できる批評家であるという安心感をその文章から感じました。

 

鑑賞

さて、そんな芭蕉ですが、本書で入門者がとにかく読むべきは百句の章です。文字どおり、松浦の選による芭蕉の代表句100句を、氏の批評とともに読むことができます。

 

私見ですが、詩を読むのに何より大切なのは、自分が正しいと信頼できる評者を持ち、その人の鑑賞を学びながら、読むべきポイントを体得していくことですね。私の場合、大江健三郎古井由吉の書いた評論文が評価のメルクマールとなっています。

 

この芭蕉論が信頼に値するかは読者ひとりひとりの判断に委ねられていますが、私にとっては、時折あまりに個人的な読みが提示されるものの、概ねわかりやすくまとめられており、好著であるように思われました。

 

初見ではわからない句であっても、このガイドで着眼点を学べば、たちまちにしてその底なしの世界観に浸ることができます。

 

うき我を寂しがらせよかんこどり

入る月の跡は机の四隅かな

此道や行人なしに秋の暮 

 

このあたりの句は初読でしたが一気にとりこになってしまいました。孤独か、切なさなのか、あるいはいっそ誇りであるのか...。

 

「此道や…」は、俳諧という「此」一道を究めてしかもその先へ行こうとしている天才が生涯の最後に得た所懐として、さらには、無常の世に有限の生を宿命づけられた人間存在の核心を突く名言として、神話化されていった。

- p. 143

 

 格好良すぎるといったところです。

 

 

与謝蕪村

芭蕉から約50年、一茶に先立つこと約50年と、ちょうど板挟みとなった格好の与謝蕪村

 

のちの章で長谷川櫂小林一茶を大いに論じてしまうこともあり、本書においてはいささか小ぶりに見えてしまっているかもしれません。

 

辻原登による編集は、春夏秋冬の円環構造に発句を配置するという挑戦的なスタイルであり、発句を時間のくびきから解放することには成功しているように見えるものの、かえってこの俳人の全体像が捕まえ難くなってしまったかもしれません。

 

無論、名句には事欠きません。例えば

 

遅き日のつもりて遠きむかし哉

 

これなんかは日常の中に壮大を感じさせるスケールの飛躍があってかなり好きです。しかし批評がよろしくない。

 

遠き、遠し、は蕪村独自のサウダーデ・レトリック。蕪村の句を口ずさむたびに思い出すのが、サウダーデ というポルトガル語だ。これは、十数年前、ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスが...(後略)

- p. 234 

どうでしょう? 私には、あまりに個人的な趣味を押し付けられているようで、この箇所以来この評者に対する期待値を大きく下げてしまった。批評とすら言えるかどうか、感想文か連想の類に思われます。

 

個人的な趣味の押し付けという点に関して言えば、松浦寿輝も突然映画『ラストエンペラー』の話をしだした時はげんなりしましたが、この辺りではそういうマナーがまかり通る土壌があるのでしょうか? 安東次男ならそう安直なことは書かないと思いますけど。

 

 

小林一茶

こちらは本職の俳人長谷川櫂による熱のこもった一茶論。本書の白眉であります。おこがましいか。

 

前段では少し力が入ってしまいましたが、それもこれもこの小林一茶の章が素晴らしすぎて、芭蕉や蕪村を食ってしまっているせいです。

 

というのもここで長谷川は、芭蕉・蕪村から正岡子規高浜虚子に至る系譜における一茶のポジションを明確に再定義しようとしています。タイトルもあからさまに、「新しい一茶」としています。

 

単に鑑賞するというのではなく、強い目的意識がここにはあります。もちろん、松浦は安東次男に挑んでいるし、辻原は斬新な編集に取り組んでいる。しかし、長谷川の評釈は覚悟が違うように感じられる。

 

長谷川を駆り立てる熱源は、一茶は子供向けの俳人ではないという明確な主張です。

 

その誤謬を正そうとする熱気が伝わって来るわけです。

 

鑑賞

詩における定義ほど難しいものはないのですが、この論考では一茶の特色が明確に定義されています。

 

それはすなわち、市民的情趣古典との乖離近代的自我であります。

 

これらのキーワードを根拠に、古典の呪縛から逃れられなかった芭蕉に対して、日常語で飄々と小市民的情趣を詠む一茶といった人物像が一方では描かれ、もう一方では近代俳句の創始者であるとされてきた正岡子規の欺瞞が暴かれます。

 

江戸前期を生きた芭蕉に対して、一茶は大衆化が進んだ江戸後期に生きました。大衆化の中で古典離れも進みました。

 

近代とは大衆の時代、すなわち一茶は近代人であると評者は主張します。

 

そして返す刀で、俳句の近代化を推進しようとした正岡子規の運動が、実は明治政府の欧化政策に対応した、極めて政治的な営みであったと喝破します。

 

またこうした大上段に構えた論考のみならず、一茶の個人史に根ざした句が的確に解説されているのも嬉しいですね。

 

ふしぎ也生た家でけふの月

目出度さもちう位也おらが春

もともとの一人前ぞ雑煮膳

 

家族との相克、子との離別、妻の死...。これを面白おかしくひねって詠む。まさに俳諧の真髄です。

 

まとめ

前回記事を引き継いで、芭蕉・蕪村・一茶の三宗匠の発句を読み、また現代文学者による評釈を読んできました。

 

こうして振り返ってみると、作品の訴求力を決めるのは評者次第ですね。

 

明確で魅力的なストーリーとともに提示される作品が、名作として読まれるということはあるかもしれません。

 

そういった観点でいえば、本書収録の俳諧師のうち、もっとも魅力的に読めたのは小林一茶だった、ということでした。

 

 

次回記事では丸谷才一大岡信による歌仙論と実作品についてまとめます!

 

このトピックについてはいくらか思い入れがあるので、楽しく執筆できればと思います。

 

それでは!